私は詩を書くのが苦手だ。
文章は書ける。だが、文章と詩とは全く別物だ。
「カチリ 石英の音 秋」
これは小学生の書いた詩だ。秋の静けさが良く出ている。
こんなに短い言葉で秋の雰囲気を現すなんて、素晴らしい。まるで俳句みたいに、あらゆる言葉をそぎ落としている。
「古池や かわず飛び込む 水の音」
あまりにも有名な俳句だが、これが長い間西欧人には理解されずにいた。というのも、これをそのまま英訳したものを、再び日本語に訳するとこうなる。
「古い池がありました。蛙が池に飛び込みました。水の音が聞こえました」
これでは雰囲気は伝わってこない。なぜなら、これは詩ではなくて文章になってしまったからだ。
先程の子供の詩も、英訳して日本語に戻せばこうなるだろう。
「カチリという音が石英から聞こえた。秋になった」
これもまた文章になってしまい、静けさは伝わってこない。
「触れることのない心の奥に 今まで過ごした毎日の切れ端が うずたかく積まれてあった」
まるで文章みたいだが、これは守沢の作った詩だ。私はこれを見ていると、和歌のように感じる。俳句のように言葉をそぎ落としてはいないが、少ない言葉で心情を良く現しているように思える。
これを英語に翻訳するのは難しい。切れ目がないからだ。これをイギリス人の牧師が英訳してくれたものがこれだ。
There was a heap of evidence in my life
in the deepest corner of my heart which I have never touched.
これをこのまま日本語に翻訳したら、間違いなく文章になる。
日本語と英語とでは、詩の作り方も違うが、共通点もある。
どちらも省略があるということだ。
だがその省略は、日本語の方が甚だしい。
日常会話においてさえ、主語と目的語が省略されるのは普通だ。
それを更に省略するのだから英訳するときには、せっかくそぎ落とした言葉を付け加えることになる。
なぜなら英語は、主語と動詞と目的語と、それが単数か複数かを示さなければならないからだ。
たとえば「本を取ってくれ」を英語にする場合「私に棚の上の一冊の本を取ってくれ」となる。
その代わり英語など外国の詩には、韻を含むことが多い。
最近は日本人でも韻を含む歌詞を作る人がいるが、大抵は韻を含むために、無駄な言葉を数多く使っているように思える。
日本語の良さは省略なのに、逆に無駄な言葉を多く使うと、歌詞が長くなってしまう。外国語の良さを取り入れるために日本語の良さを無くしては何にもならない。
そして無駄な言葉を使うことになれてしまうと、今度は言葉をそぎ落とすということをしなくなる。
最近の歌は長いものが多いが、歌詞を見ると、言葉が多すぎて、むしろ伝わりにくいように感じてしまう。
たとえば「本を取ってくれ」といわれればすぐに理解できるが「私に棚の上の一冊の本を取ってくれ」などと言われると、一瞬戸惑ってしまうようなものだ。
長い歌詞が全て悪いというつもりはない。日本にも、短歌に対して長歌というものがあるから、長いのはかまわないが、無駄な言葉ばかりの長い歌詞は、混乱するし退屈する。
それは私ばかりではないようで、最近CDが売れなくなった要因の一つだとも言われていて、一曲丸ごと聴くのは退屈だから、サビの部分だけを聴きたいという人が増えているそうだ。
たとえば長いスピーチは、あまりに盛りだくさんだからなにをいわんとしているか分かりにくい。それくらいなら最後のまとめだけを聞きたくなるだろう。
歌にしても、言葉が盛りだくさんで、どうでもいい言葉が多すぎる歌詞では、一曲丸ごと聴くためにCDを買おうとは思わないだろう。
さて、私のブログはいつも長くなりすぎるので、この続きはまた書くことにしよう。
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