詩と文章

私は詩を書くのが苦手だ。


文章は書ける。だが、文章と詩とは全く別物だ。


「カチリ 石英の音 秋」


これは小学生の書いた詩だ。秋の静けさが良く出ている。


こんなに短い言葉で秋の雰囲気を現すなんて、素晴らしい。まるで俳句みたいに、あらゆる言葉をそぎ落としている。


「古池や かわず飛び込む 水の音」


あまりにも有名な俳句だが、これが長い間西欧人には理解されずにいた。というのも、これをそのまま英訳したものを、再び日本語に訳するとこうなる。


「古い池がありました。蛙が池に飛び込みました。水の音が聞こえました」


これでは雰囲気は伝わってこない。なぜなら、これは詩ではなくて文章になってしまったからだ。


先程の子供の詩も、英訳して日本語に戻せばこうなるだろう。


「カチリという音が石英から聞こえた。秋になった」


これもまた文章になってしまい、静けさは伝わってこない。


「触れることのない心の奥に 今まで過ごした毎日の切れ端が うずたかく積まれてあった」


まるで文章みたいだが、これは守沢の作った詩だ。私はこれを見ていると、和歌のように感じる。俳句のように言葉をそぎ落としてはいないが、少ない言葉で心情を良く現しているように思える。


これを英語に翻訳するのは難しい。切れ目がないからだ。これをイギリス人の牧師が英訳してくれたものがこれだ。


There was a heap of evidence in my life
in the deepest corner of my heart which I have never touched.


これをこのまま日本語に翻訳したら、間違いなく文章になる。


日本語と英語とでは、詩の作り方も違うが、共通点もある。

どちらも省略があるということだ。

だがその省略は、日本語の方が甚だしい。

日常会話においてさえ、主語と目的語が省略されるのは普通だ。

それを更に省略するのだから英訳するときには、せっかくそぎ落とした言葉を付け加えることになる。

なぜなら英語は、主語と動詞と目的語と、それが単数か複数かを示さなければならないからだ。

たとえば「本を取ってくれ」を英語にする場合「私に棚の上の一冊の本を取ってくれ」となる。


その代わり英語など外国の詩には、韻を含むことが多い。

最近は日本人でも韻を含む歌詞を作る人がいるが、大抵は韻を含むために、無駄な言葉を数多く使っているように思える。


日本語の良さは省略なのに、逆に無駄な言葉を多く使うと、歌詞が長くなってしまう。外国語の良さを取り入れるために日本語の良さを無くしては何にもならない。

そして無駄な言葉を使うことになれてしまうと、今度は言葉をそぎ落とすということをしなくなる。


最近の歌は長いものが多いが、歌詞を見ると、言葉が多すぎて、むしろ伝わりにくいように感じてしまう。

たとえば「本を取ってくれ」といわれればすぐに理解できるが「私に棚の上の一冊の本を取ってくれ」などと言われると、一瞬戸惑ってしまうようなものだ。


長い歌詞が全て悪いというつもりはない。日本にも、短歌に対して長歌というものがあるから、長いのはかまわないが、無駄な言葉ばかりの長い歌詞は、混乱するし退屈する。


それは私ばかりではないようで、最近CDが売れなくなった要因の一つだとも言われていて、一曲丸ごと聴くのは退屈だから、サビの部分だけを聴きたいという人が増えているそうだ。

たとえば長いスピーチは、あまりに盛りだくさんだからなにをいわんとしているか分かりにくい。それくらいなら最後のまとめだけを聞きたくなるだろう。

歌にしても、言葉が盛りだくさんで、どうでもいい言葉が多すぎる歌詞では、一曲丸ごと聴くためにCDを買おうとは思わないだろう。


さて、私のブログはいつも長くなりすぎるので、この続きはまた書くことにしよう。


ちなみに「2月30日」のメロディーが気になる人は、下のリンクをクリックすると、45秒間だが、無料で試聴できる。

http://www.dojinongaku.com/contents/goods_detail.php?goid=12743

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尊厳

ミュージシャンのTAKAMが、自分たちのバンド、バディタイムの評判が気になって、ネットで検索したところ、ヒットした中に、考えさせられるブログが有ったと私にメールで知らせてきた。

そのブログは長くて、前後編に別れていた。もっとも長いとはいっても、時折私の書く長いブログよりは短い。

読んでみて、なるほどと思うことが有った。

生活保護費の不正受給が問題になっているが、貰えるものなら何でも貰っておこうという人がいるかと思えば、こういう人もいるのだと考えさせられた。

しかし考えてみれば、日本にはこういう考え方をする人の方が多かったはずだ。

それは昭和以前だからというわけではない。バブル以前の日本人の多くがこのような考え方をしていた。

バブルが、一番大切なものをお金にしてしまったのかも知れない。

そしてその後のネット社会が、それに拍車をかけたように思う。


ネットでは多くのものが只だ。ある動画サイトが、有料に切り換えたところ、多くの人がそこから逃げ出した。有料といっても、料金は月に百円からだ。百円なんて、多くの人が落としても気にもしない金額だ。百円ショップで手に入れたものがすぐに壊れても文句を言わない金額だ。

逃げ出した人の多くは、百円を高いと思ったからではない。それがたとえ一円でも、有料ということに抵抗があるのだ。

だから只で貰えるものには全く抵抗がない。只にするために裏でどういうことが行われているかには全く無関心だ。

けれどもネットを運営するには、一人当たり数百円もかかるそうだ。当然損をしないために運営者は色々やっている。

その動画サイトは、画質も音質も良く良心的だったが、とうとう無くなってしまった。


日本人全体が無料ということに慣れてしまったのと、日本の景気がなかなか回復しないのとが、私にはシンクロしているように思える。

無料のサービスのために人は雇えない。人手が少なくなれば質は低下する。低下した質ではそのうち離れていってしまう。

良いものを作っても、お金を出してまで手に入れるのはいやだとなると売れないから、その企業はつぶれるか、海外移転するしかない。

すると失業者が増えて、更に購買力が落ちるから、益々デフレが加速する。


TAKAMの見つけたブログの人は、無料について書いていたのではない。年をとった母親のために頼んだデイケアサービスについて書いていた。

だが私はこのブログを読んだとき、日本人が元々持っていた誇りということについて考えさせられた。それなら誇りを失った原因はなんだろうと考えたとき、無料に慣れきってしまったことを思い浮かべたのだ。

それなら私がそうであったように、そのブログを読んだ人は、何かほかに考えさせられるようなものがあるかも知れない。そう思って以下のブログを紹介することにした。


その人は母親が喜ぶと思ってデイケアサービスを頼んだ。親孝行だ。

けれども母親は困惑してしまったのだ。


そのブログを見てみたいという人のために詳しいことはここには書かないが、TAKAMがネット検索でヒットしたのは、バディタイムの曲「それはOitoite」の歌詞と対比するようにブログを書いていたからだ。


興味のある人のためにリンクを張り付けておきます。


前編 バディタイム「それはOitoite」~母「片隅でひっそりと・・・」

http://blog.goo.ne.jp/yasu8658/e/359a001979961669e83a1d868b7c2f31


後編 続バディタイム「それはOitoite」~母「片隅でひっそりと・・・」

http://blog.goo.ne.jp/yasu8658/e/d529eb3285263de2a09ea3050c045cd0

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情報

昔は情報というと新聞が主だった。

そのうち書店が多くなった。

暇が出来ると、大抵書店に行く。ぶらぶらしている内に気になる本が見つかると手にとって読んでみる。面白そうなら買って帰る。

私は雑学が大好きなので、本のおかげで色々な情報を得ることが出来た。

しかし、テレビも面白い。特に所さんの目が点や、そこん処などは、面白い情報が手に入る。世界丸見えテレビもそうだし、その他のそうした情報番組も楽しい。NHKスペシャルもそうだし、和風総本家も楽しく情報を手に入れられる。

私のは雑学でうんちくではない。

最近のテレビでは、うんちくも雑学も同じ扱いになっているが、私は違うと思う。

うんちくとは、人に自慢できる情報のことで、自慢するためにはしっかりと覚えておかなければならないから努力が必要だ。

そこへ行くと、雑学はもっと楽だ。

雑学とは、人に自慢する知識ではなく、自分を楽しませるためのものだ。だから覚えておく必要はない。自分が納得できればそれでいい。

ところが不思議なもので、覚えようとしなくても、雑学は記憶に残る。

不思議だなと思っていたら、テレビでその仕組みを見た。

人は覚えなければならないと思うと、それだけで脳が緊張して、記憶するにはそれなりの努力が必要だが、雑学のように、自分の興味のあることだと、脳が勝手に集中してくれるのだそうだ。

なるほど、集中力が高まっていれば覚えていられるはずだ。

雑学には他の楽しみもある。知識がリンクし始めるのだ。全く関係ない知識が、他の知識と、もう一つ他の知識と、更にもう一つ他の知識と繋がっているらしいということがわかると、それぞれがある出来事の断片であることがわかってくる。

インドの笑い話に、三人の盲人が象に触って、鼻を触った一人は、「像は長いホースのようなものだ」といい足に触った一人は「象とは太い柱のようなものだ」といい体に触った一人は「象とは壁のようなものだ」といった話がある。

雑学もそうで、それぞれが独立した知識にもなるが、それらが、他の知識と繋がることで、その全体像が見えてくる。これが雑学の醍醐味になる。

私の場合、うんちくではなく雑学だから、人に自慢するような話はないが、何かを尋ねられたときには、それに関する知識を教えることが出来る。要するに受動的なのだ。ということは、うんちくは能動的な知識ということになる。

受動的で思い出したが、思いもよらなかったところから飛び込んでくる情報もある。

私は音楽をやっているからホームページを持っている。そしてそこにはメールアドレスを公表している。

そのせいで、ものすごい量のエッチメールが飛び込んでくる。それが只のエッチメールならいいのだが、そのほとんどは詐欺サイトへ誘うメールだから困る。一日に多いときには百通近くになったことも有った。

けれども、その中に、思わぬ情報もあることがあるので、一応はチェックする。

私が注目するのは音楽サイトからの誘いで、これは嬉しいと思い、その誘いに乗ってみた。

けれども、世の中にはうまい話は転がっていないもので、大抵は期待外れに終わってしまう。

まあまあだったのが着歌サイトで、こちらの方はある程度は反響は有った。ところが、着歌サイトなので、歌フルはあるが、ダウンロードできるのは携帯からで、パソコンからではダウンロードできない。

だから以前から音楽ダウンロードサイトを探していたが、その情報は飛び込んでは来なかった。

ところが、あるサイトを通じて知り合った音楽仲間から、面白いサイトを見つけたという情報が入ってきた。

見てみると、ここでは、何でもありに近いダウンロードサイトで、音楽はもちろん、楽譜もダウンロードできる。そればかりではない。問い合わせてみたら朗読もOKだそうだ。

音楽にしても、オリジナルばかりでなく、カバーもOKだという。ただし、JASRAC登録曲に関しては無料ではだめで、必ず有料にしなくてはならない。このサイトがJASRACに著作権使用料を支払うからだが、その手数料は良心的だ。

しかもこのサイトの分かりやすいのは、送り手とダウンロードする人とを分けて扱っている。

ダウンロードする人はユーザーで、ユーザー登録してもしなくてもダウンロードは出来る。ただ登録していると、支払いに色々な便宜が図ってもらえるらしい。

送り手はサークルで、サークルといっても複数の人が集まっているところではない。送り手個人がサークルで、ユーザーを集める場所という意味だ。もちろん私はサークル登録をした。

http://www.dojinongaku.com/contents/group_profile.php?grid=1277

ここは私のサークルページだが、ここを見ればサークルページがどんなものか、だいたいわかってもらえると思う。そしてここから、サークルにもユーザーにも登録できる。またここからトップページへいけば、他の人のサークルも見れるし、曲名を入れて検索することも出来る。

このブログを見ている人で、何かを発信したい人には、お奨めのサイトだと思う。登録もアップロードも無料なのだから損はない。しかも有料設定をしていれば誰かがダウンロードしてくれるたびにお小遣いくらいは入る。

音楽や音声などはmp3で20メガバイトまでアップできるし、このサイトの特徴だと思うが、詰め合わせセットなるものがあって、音楽と写真など、様々なものをZIP形式にすると200メガバイトまでアップできる。15分を超えるものには便利だし、短いものでも、音質を良くしたいときには低圧縮mp3が使える。

試聴も可能で45秒以内の音声や音楽を聴くことも出来る。

一言でいうなら、このサイトは、コミケの音声版のようなものだろう。誰でも発信者になれるし、誰でもお客になることが出来る。

というわけで、わかったことというと、待っていて向こうからやってくる情報にろくなものはないが、知り合いからやってきた情報なら、ある程度は役に立つようだ。

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耳無し芳一の話し

今年の夏も電力不足だそうです。

あれから一年もたつというのに電力会社は、原発の再稼働に向けては最大限の尽力をしたみたいですが、火力発電などの整備には消極的だったようです。

それなら我々も自衛手段が必要です。

暑くなればエアコンが欲しくなりますが、エアコンなど無かった江戸時代の知恵を利用しましょう。

江戸時代の日本人は勤勉だったと思われているようですが、実は今よりも賢く生きていました。

夏の間、大工など、外で仕事をする人たちは、長い夏休みをとっていたそうで、その間の生活費を捻出するために、質屋を利用したそうです。冬用の着物など、夏には必要のない品物を質入れして、涼しくなってから働いて質屋から出して、冬に備えたそうです。

けれども長い夏休みの取れない人もいました。商家などがそうですね。

そういう人たちは、怪談話などを聞いたりして、涼をとっていたそうです。

そこでラフカディオハーンの怪談を朗読してみました。

耳無し芳一の話です。

ただ、あまり期待はしないでください。

ラフカディオハーンは怪談話で知られていますが、彼の怪談はあまり怖くはありません。

それは彼が日本が好きになった理由とも関係があります。

「停車場」という小説の中で彼はこう書いています。

「日本人は、たとえ犯罪者でも、人間の心を持っている」

ですからラフカディオハーンが怪談話が好きだったのも、日本の怪談には優しさが満ちあふれているということを知っていたからではないでしょうか?

雪女などは、妖怪である雪女さえも、人間の優しさを持っているという話です。

YouTubeでは、パソコンの前で聴くか、スマートフォンなどで聴くしかありませんが、携帯音楽プレーヤーで聞きたいという人のために、ダウンロードサイトにもアップしました。

できるだけ安く聞いていただくために、朗読は全て100円均一にしました。

音楽ダウンロードサイト音楽の森http://www.dojinongaku.com/contents/group_profile.php?grid=1277

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イラスト

子供のころから絵が上手だったわけではない。むしろ下手だった。


だが、必要に迫られてイラストを描き始めてみると、何となくそれなりに仕上がった。


絵が下手ということが頭に有ったから、修正をしやすいように鉛筆画を選んだことも良かったようだ。


墨絵などのように、一度描いたら修正の出来ない絵だったとしたら、間違えるたびに書き直さなければならない。


それでは上達するのに暇がかかる。


けれども、消しゴムさえ有ればいくらでも修正の出来る鉛筆画であれば、出来上がった絵を見て、ここだけ修正したいと感じたら、すぐにそれが出来る。


姑息なやり方と思う人もいるかもしれない。


だが、これがいいのだ。


修正を繰り返している内に、次第に絵の書き方がわかってくる。


絵の上手な人は、見たままを描けばいいのだという。


たしかに、まるで写真のような絵を描ける人は、誰しも絵が上手だと認めるだろうし、私もそう思う。


けれども、見たままを描くことはとても難しい。


たしかに目では見ている。それをそのまま絵に描くことは、いうのは簡単だが、描くのは難しいのだ。


とりあえず描いてみて、絵と、見たものとを比べてみると、まるで似ていない。


全てが似ていないが、その中でもとりわけ似ていないものを探して、そこだけ描き直すと、少しはましになる。


それを繰り返している内に、悲惨な絵が、それほど悲惨ではなくなっていく。


日を改めて、再び見直してみると、またとりわけ似ていないところが見つかる。そのたびに修正していくと、日を追うごとに、何とか見られる絵に近づいてくる。


最初から全てを描き直していると、自分の最大の欠点がわからない。何もかもが欠点に見えてくる。けれども、最悪の場所を見つけて、そこを修正している内に、自分の最大の欠点が見えてくる。


欠点を直すのは難しいというが、それは、自分の欠点が多すぎて、直しようがないからだ。


けれども、自分の欠点の内、最大の欠点だけに絞れば、そこをある程度修正するのはそれほど難しくはない。


最大の欠点だから、その欠点を完全に修正する必要はないからだ。数多くある自分の欠点の中で最悪のものを、最悪でなくすればいいだけだから、少し良くなれば、他の処が最大の欠点に取って代わってくれる。


わかりやすくいうと、百の欠点があったとして、その最悪の百番目の欠点が、99位になれば、それまで99位だった欠点を追い越してしまう。それならそれほど難しいことではない。


こうして最悪の欠点をある程度修正できれば、今度は他の欠点が最悪になるから、それを修正していく。


もしも絵を最初から書き直していれば、どれが最悪かはわからないのだから、絵全体がある程度上達するまでは、自分の上達具合がわからないが、最悪の処だけを修正していると、その最悪が最悪でなくなったときには、自分の上達が見えてくる。


私は鉛筆画を選んだことで、私の絵は急速に上達したと思っている。


人物画はまだまだだが、動物だけは上手に描けるようになった。


すると、猫の絵を描いてほしいと頼まれた。


渡された写真はピンぼけだった。もっとハッキリした写真はないのかと尋ねたら、それしかないという。


そこで実際の猫の姿を思い出しながら描いている内に、次第に面白くなってきた。ピンぼけの写真だったので目が生き生きしていなかったが、何度も修正をしている内に生き生きした目になった。


出来上がった絵を渡すと喜ばれた。生きていたときの姿そのものだといわれた。そう、写真は二年前に死んだ猫の写真だったのだ。


するとまた猫の絵を頼まれた。今度はわりとしっかりした写真だったので描きやすかったが、描き上がった絵を見て弟がいった。

「目が怖い」


他の人に見せてみると、「目が怖い」という人と「目が生き生きしている」という人とに別れた。


なるほどと思った。私は猫が好きだ。だから猫の目は物おじしない目だと知っている。相手をまともに見つめる目だ。


人間で、まともに相手を見つめる目をされたら、怖い目だと感じる。


猫の目を怖いといった人は猫好きの人ではなく、生き生きしているといった人は猫好きの人だった。


というわけで、二枚の猫の絵を見てください。一枚の方は怖いという人はいませんでしたが、もう一枚の方は怖いと言われた絵です。


みなさんはどう思いますか?


ELD-ERのブログ

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魚と活舌と美容

魚嫌いの人の理由の一つとして、小骨が多いからというのがある。

刺身以外の魚料理では、煮魚にしろ、焼き魚にしろ、その他の料理にしろ、大抵小骨は残っている。

器用な人は、箸で骨をよけながら身だけを挟んで口に入れるが、不器用な人だとそうはいかない。

食べ終わった後を見ると、魚好きかそうでないかがわかる。

魚好きの人の食べ終わった後は、猫も跨いで通るほど、残っているのは骨ばかりだ。

母は魚好きで、良く煮つけなどを作ってくれていたが、私の食べ終わった後を見て驚いていた。

魚の骨の標本が出来ていたからだ。

それは私が器用だったからというよりも、母が柔らかく煮てくれていたので、骨の形を崩さずに身だけを取ることが出来たからだが、「あんたの食べた後は、猫も見向きもしないわね」といっていた。

それほど器用に身だけを取ることの出来る私は、小骨なんか口に入れないだろうと思うかもしれないが、それでも小骨は時折口に入っている。

だが、身と一緒に口に入った小骨は飲み込むことはない。口の中でより分けて、小骨だけを出してしまう。

自然にそういうことが出来ていたので、別に気にもかけなかったが、ある時ふと気がついたことがある。

全てではないかもしれないが、少なくとも私の知る限り、魚の食べ方の下手な人は活舌が悪く、電話で話していても、所々聞き取りにくい言葉がある。

弟は魚の食べ方が下手で、小骨どころか、大きな骨を喉に引っかけて、医者にいったことさえあるくらいだが、弟の話は聞き取りにくい。面と向かっていても所々わからない言葉がある。電話では尚更で、意味不明の単語が出て来るときもある。大抵は話のつながりで推測するから何とかなるが、どうしても理解不能のときには聴き返すこともある。しかし数回聴き返さないとわからない単語もある。

反対に、魚の食べ方の上手な人の話は聞き取りやすい。

親友も私と同じで魚を上手に食べる方だが、とても活舌が良くて、電話で話していて全ての言葉が聞き取れる。

ある時ふと考えた。

何故なのだろうと。

すると面白いことに気づいたのだ。

私が口の中の魚の身と小骨とをより分けるのは舌の感覚と動きだ。

舌に小骨らしき感覚を感じ取ると、その小骨はいつのまにか唇まで運ばれているが、その時に大活躍しているのが舌の動きだった。

その事がわかってから注意して舌の動きを観察してみると、なんと器用に小骨だけをより分けて前歯の処に運んでくることか。自分の舌ながら私は感心してしまった。

ところで私は朗読をやっているが、日常会話に使う言葉ばかりならそうでもないが、文章にしか使わないような言葉が出てくると、正確に発音しなければ伝わりにくいこともある。

そういう言葉が出てくる度に、私は何度も練習をするが、その時に、ハッキリした発音に役立ってくれるのが舌の動きだ。

日常会話のときの舌の動きは、いわゆる行書のようになめらかに動いているが、きちんとした動きではない。四角い部屋を丸く掃くような、いい加減な動きだ。

けれども、日常会話に使われている言葉はそれほど多くはなくて、普段聞き慣れているから、それに近い発音であればすんなり入ってくる。

たとえば「欲しい」という言葉は、「ほしい」と発音しなければならないが、若者たちは「ほしぇー」と発音しているけれども、それでも意味は伝わる。

どうして「ほしい」が「ほしぇー」になるかというと、「ほし」まで発音して、最後の「い」を発音するときに、本来なら舌を前の方に出したまま発音しなければならないところを、舌の力を抜いてしまうから、舌が引っ込んでしまう。すると「い」が「え」のような発音になってしまうからだ。

もちろん「し」も舌を前に出した状態で発音しなければならないのだが、「し」に関しては、舌がそれほど前に出ていなくても、何となく「し」に聞こえてしまう。

これらをまとめると、「ほ」は舌を前に出さなくても発音できるし「し」も同じように舌を前に出さなくてもとりあえず「し」らしい音には聞こえるので、そのママの舌の位置で「い」まで発音してしまうから「ほしぇー」になってしまうのだ。

小平公園ですれ違った女性が「もしもシェー、もしもシェー」と携帯に向かって話していたが、これも同じ理由だ。

普段聞き慣れている言葉なら、このいい加減な発音でも通用するが、あまり使わない言葉となると、楷書のような、きちんとした発音でないと意味が伝わりにくい。

楷書のような発音をするためには、舌を正確に動かさなければならない。

舌の動きさえ正確なら、たとえばいっこく堂のように、顎も唇も動かさないでも活舌の良い発音が出来る。

それならなおのこと、舌の動きは大切だ。サクランボの枝を口の中で結ぶことの出来る人は、もしかすると腹話術も簡単に出来るかもしれない。

魚好きの人は、食事中には舌を活発に動かしながら食べているが、魚の食べ方の下手な人はあまり動かしていないようだ。

健康法の一つに、舌の運動というのをテレビで見たことがあるが、これは美容にも役立つといっていた。

してみると、魚のDHAが美容と健康に良いというよりも、魚好きな人は、食事をしながら舌の運動をしているから、若々しく、美しくなれるのかも知れない。そう思うのも、サプリメントでDHAをとっている人よりも、魚を良く食べている人の方が若々しく見えるからだ。

舌っ足らずの人は別として、ろれつの余りよく回らない人は、なんか老けているように見えるが、やはり舌の動きは若さとも関係しているのかもしれない。

余談になるが、舌っ足らずと言われている人の舌の動きは、シェー族とは反対に舌が前に出ているからのようだ。おそらく生まれつき舌が長いのではないだろうか?それなら舌っ足らずではなく、舌足りすぎということになるが、長すぎる舌は軽快には動きにくいだろうから、この人たちの活舌の悪さは、舌の運動量とはあまり関係ないように思う。

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喜助

森鴎外の高瀬舟に登場する喜助という罪人。

鴎外はこの喜助の言葉に共感して、高瀬舟を書いたと高校のときに教わった。

そして何故、鴎外が喜助に共感したかもその時に教わった。

鴎外の一生は諦観の一生だったからだというのだ。

私はその「諦観」という言葉に不思議に惹かれた。

「達観」にも似た感覚があったからだ。

人は中学生にもなると、様々な社会事情もわかるようになり、また大人たちの矛盾も見抜けるようになり、変に理屈っぽくなる。

私もその一人だった。だからずいぶん生意気なこともいったし、その言葉をノートに書き留めたりもした。

何時か将来、私の言葉が格言になるだろうと思ったからだ。

だが現在では、私はブログや小説は書くが、言葉として書き留めたりはしていない。

後で読み返しても大した言葉ではないと気づいたからだ。

もしも私が中学生のときのまま大人になっていたとしたら、鼻持ちならぬ人間になっていたことだろう。

中学生のときや高校生のときには、言葉の力を強く信じていた。

それは言葉に対する解釈が、きわめて狭く、多様性を理解できなかったからだ。

「諦観」にしてもそうだった。

鴎外は子供のときから期待されて育った。その期待に答えるべく一心に勉強した。何でも小学生のときには漢文日記を書いていたそうだ。

成績が優秀だったので、年齢をごまかして東大に入学した。だから同級生はみんな年上だったそうだ。

国費でドイツへ留学して、帰るときにはドイツ人からとても惜しまれたそうだ。
「モリ、君のドイツ語は我々よりも発音がいい。君はドイツ人になるべきだ」とまで言われたそうだ。

その鴎外が、ドイツで初めて恋をして、ドイツ人女性を妻として迎えるために連れ帰ったら、親戚一族に猛反対されて、諦めるしかなくなった。

鴎外はその事があってから、諦めということを自分の生き方に取り入れるようになったそうだ。

鴎外の小説を読んでみても、随所に成り行きに任せるようなところが出てくる。

でもそれは、私には「諦観」というよりも、「達観」しているように映った。

私も世の中のことを達観していたい。そう思った。

けれども今になってみると、諦観と達観とは別物であることもわかった。

喜助は「足ることを知っている」

昔の私なら、足ることを知るということは、現状に満足しきってしまうことだと思っていたが、実はそうではないということもわかるようになった。

「現状に不満があるから前進する」昔の私ならそう思っていた。

でも、足ることを知ることと、現状に満足しきって前進しないこととは別物だということが理解できるようになった。

それは多くの人に出会って、様々な生き方を見たからだと思う。

私の親友は見事に現実を受け入れる。そして受け入れたことで現実的な生き方をしている。けれども進化する意欲もまた大きい。あらゆることにチャレンジするのだ。商業高校を出た彼は間違いなく文系だが、その彼がパソコンを勉強して、実用的なソフトまで作り上げた。

喜助も同じだ。喜助はその時その時の現状に甘んじている。足ることを知っているのだ。けれども未来に対する希望は失っていない。

足ることを知ることと、未来に対する希望とは矛盾しないのだ。

鴎外もそうではなかったろうか? だからこそ、資料で読んだ喜助の話を小説に書く気になったのではないだろうか?

鴎外の「諦観」は諦めることではなかったのではないだろうか?

現実を受け入れる。それが鴎外の「諦観」だったのではないだろうか? 私が鴎外の「諦観」を「達観」だと思えたのは、そうしたことがあったからではなかったかと、今は思う。

現実を受け入れ、現実に満足する。けれども夢は捨てない。

たとえば収入は少なかったとする。その少ない収入でやっていくためには倹約をしなくてはならないが、そうした倹約生活を楽しみながら、夢に向かって前進していく。

喜助はそんな人のように思える。現実を受け入れているからこそ、現実に感謝しているが、夢は持ち続けている。

だが庄兵衛はその反対だ。現実には満足を覚えていない。それなら現実を打破しようと努力をしているかというとそうでもない。むしろ未来に対する不安があるだけだ。そしてそういう人の方が多いということにも最近気がついた。

現実を受け入れない人、現実に不満のある人の多くが、未来に対する不安を抱えている。言い方を変えるなら、未来に対する不安があるから、現実を受け入れられないのかもしれない。

現実を受け入れること、満足していることと、未来に対する希望ということは、むしろ同居するのだと私は思う。逆の言い方をするなら、未来に対する希望があるからこそ、現実を受け入れているのではないだろうか? なぜなら未来は現実の積み重ねだから。

私は喜助の生き方に共感する一人だ。今の現実から希望の未来へ向かって歩きたい。

だから「高瀬舟」を朗読したくなった。

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