選挙

選挙戦が始まった。

一番癪に障るのは、名前を連呼する候補だ。煩くてかなわない。

「東京太郎でございます。ありがとうございます。ただいまお店の中から応援をいただきました。ありがとうございます。東京太郎でございます。またまた応援をいただきました・・・・」

そんなに応援してくれる人がいるなら、私は応援する必要はない。

耳障りの良いことばかり言う政党も困る。

「アメリカの言いなりになるのはもうお終いにしましょう」

なるほど、それは素晴らしい。だが、アメリカの後ろ楯が無くなると、尖閣諸島問題では中国が色々言ってくるはずだが、中国の言いなりにはならないとは一言も言わない。こんな政党には投票する気にはなれない。

「原発は直ちに廃止して、国民の安全を守ります」

素晴らしい。私は大賛成だ。だが、電気料金が上がってしまうのは困る。その事は考えているのだろうか?

アメリカでは、シェールガスのおかげで、コストが原発よりも安くなって、立ち行かなくなってしまった原発が、とうとう廃炉になることになった。そんなふうなビジョンはあるのだろうか?

 ただただ原発廃止では、太陽光発電などの自然エネルギーの買い取り価格が、通常の電気料金の三倍ほどになっているから、電気料金の価格も三倍になるのではないかという心配がある。

日本海には大量のメタンハイドレートがあるそうだが、その事に言及する政治家は一人もいなかった。太平洋よりも遥かに浅い日本海のメタンハイドレートなら、シェールガスに匹敵するくらい安く天然ガスが調達できるかもしれない。

原発廃止、消費税廃止・・・・

耳障りはいいが、そのための具体策はあるのだろうか?

具体策もないままに、耳障りのい言葉ばかり並べている政党が多すぎるように思える。

街頭演説でも、一番聞きたいのはその具体策だが、これまで一度も具体策を言ってくれた政党はない。

いや、具体策を言ってくれた政党はあった。公共工事だ。

だが・・・これまで公共工事はいっぱいやったはずだ。それで効果はなかったように思える。

「公共工事に頼るのは過去の遺物だ」と言った政治評論家が居たが、これは正しいように思える。

「大切なのは、規制緩和と、技術革新への投資だ」といった人もいる。

残念なことに、政治家ではなく、政治評論家だ。

日本はこれまで世界一の技術があったから豊かであったように思える。

世界一のコンピュータを作ろうとしたとき「二番じゃ駄目なのですか」などといった政治家のいる政党では、これからの日本は立ち行かなくなるだろう。そういえばこの政治家は、学校の耐震補強を、無駄だといって予算削減したと、誰かがブログに書いていた。

日本にはまだまだ世界一になれる技術がある。ips細胞やロボットや工作機械やアナログ技術だ。

これらの具体策を言ってくれる政党や政治家がいれば、私は迷わずそこに投票するのだが、まだそんな話は聞いていない。

だからどこに投票していいかわからない。

だからといって棄権するつもりもない。

投票できそうな政党や政治家が見つからなければ、気に入らない政党以外のところや人に投票する。

つまり、気に入らない政党に対するマイナス票を投票するつもりだ。

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言葉

言葉というものは、一筋縄ではいかない。

古来より名言、格言などというものがあるが、それらが全て役に立つとは限らない。

「失敗を恐れるな。諸君は初心者なのだ。初心者が間違えるのは当たり前。失敗からこそ多くを学ぶのだ」

良く聞く言葉だが、これが新入社員の入社式で言われたのであれば、素晴らしいといえる。

・・・だが・・・

もしもこれが、新米インターンを集めた大学病院で行われたスピーチだとすると、寒けがしてこないだろうか?

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自分のルール

私の大好きな言葉に「人は自分の決めたルールで裁かれる」というのがある。

私が人とつきあうときには、どの程度親しくなるかは自分では決めない。なぜなら相手が決めてくれるからだ。

高校のときに、結構親しいと思っていた友人とふざけていたときに、彼の靴下がほつれた。

するとその友人は「弁償しろ」といった。

なるほど、そういう付き合い方をしたいのだなと思ったから、私はそれ以後親しい付き合いはしなくなった。

仕事で九州に行ったときに、TV大分の、別府支局長をしていた人と知り合いになった。

この人は私たちの歌を聴いてこういった。

「お前たちは何で延岡なんだ。大分なら、もっと応援のしようもあるものを」

そういいながらも、いくつかのイベントに出演させてもらった。

そして、親しくしているという酒造の会長を紹介してくれたのだが、その会長から、焼酎のCMソングを作ってくれないかと言われた。

一生懸命に作って曲を渡したところ、聴きもしない内にギャラを払ってくれた。当時としてはずいぶん多いギャラだった。

ところがいつまでたってもCMの流れてくる様子がない。

私ははたと気がついた。

支局長も会長も、私たちを応援してくれたのだ。だからCMソングだと理由をつけて、私たちに破格のギャラをくれたのだ。

だから私は、この二人の名前を忘れない。

もしも私たちが有名になったら、何時かきっとこのお返しをしなくては気が納まらない。

この二人は、私たちと親しい付き合いを望んでいたのだから。

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バター茶(もどき)

チベットで良く飲まれているものにバター茶がある。

実はこのバター茶、体を温めてくれる。

正式な作り方は、バター(カロリーを気にする人は牛乳でもよい)と茶葉と塩を混ぜて、お湯をいれて良くかき回して、濾してから飲むものだ。

私のバター茶の作り方はちょっと違う。

ミルクを温めて、沸騰する寸前で火を止めて、紅茶をいれて、ロイヤルミルクティーを作る。そこに砂糖を加えて、バターをいれて、シナモンを少しいれてかき回して出来上がりだ。

コクのあるロイヤルミルクティーのような味だが、これを飲むと、体が温まる。ココアよりも温まる。

一週間以内に木枯らし一号が吹くらしい。

木枯らしが吹くと気温が十度以下になる日がやってくる。冬支度を急がなければ風邪をひいてしまう。

でもこのバター茶(もどき)があれば大丈夫。服一枚分くらいは違うほどの暖かさだ。

カロリーを気にする人はバターをいれなくてもいいが、その分温まり方は弱くなる。

バターと紅茶とシナモン、この組み合わせが体を温めるようだ。

シナモンには毛細血管を修復する作用があるといわれている。つまり血行が良くなるのだ。じっさい血行をよくする漢方薬には肉桂が入っているが、肉桂=シナモンなのだから、効き目は同じだ。

血流が良くなったところに、カロリーの高いバターを取るのだから、バターは脂肪として蓄積されるより燃焼してしまうのではないだろうか?

紅茶の成分がそれを助けるものだと思われる。

何はともあれ、お試しあれ。私の経験だと、甘酒よりも暖かさが持続するようだ。

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続コーヒー

サイフォンコーヒーは十分に楽しんだ。

手軽に入れるときにはドリップで楽しんだ。

そんなある日、弟が、知り合いの家で、パーコレーターのコーヒーをいただいたが、これが美味しかったといったので、私もパーコレーターに挑戦してみた。

荒挽きの豆をセットして、パーコレーターをガスにかける。

沸騰するとすぐに飲んでみた。

香が立っていてなかなかにいい。

次にパーコレーターに水を入れて二番煎じに挑戦してみた。

沸騰して一分ほどで飲んでみると、味わいがある。

最後に三番煎じをためしてみた。

沸騰して十分位して飲んでみると、なんと麦茶の味がした。

砂糖なんぞ入れない方が美味しい。

そこで今度は、一番煎じと二番煎じと三番煎じをミックスしてみると、香りと味わいと深みがあるコーヒーになる。

それ以来、暫くパーコレーターコーヒーを飲んでいたが、忙しくなると、パーコレーターを火にかけたのを忘れてしまって、まずいコーヒーになったりしたので、あまり使わなくなった。

現在は、面倒なので、もっぱらインスタントだが、来客があると、ドリップコーヒーを入れる。

さすがにインスタントよりは数倍美味しい。

たまにはパーコレーターでいれたコーヒーを飲みたくなるが、引っ越しのときにどこに行ったのかわからなくなった。

ついでながら、上に書いた時間は目安だ。

浅煎りのコーヒー豆ではもっと時間をかけた方が美味しいし、深煎りなら時間は短くした方が美味しい。

アメリカンコーヒーだったら浅煎りだよという人もいる。たしかにそれは正しいが、正しいいれ方だけが美味しいのではない。好みによって深煎りをパーコレーターにかけてもいいのだ。それが美味しいと思えるのなら、その人にとってはそれが正しいのだ。決まりがないのが嗜好品なのだから。

豆の量にしても、挽き方にしても、好みで良い。

パーコレーターは荒挽きが普通だが、細かくしたものでいい。ただしあまり細かいと、パーコレーターの穴から出てしまうので、粉っぽくなる。豆の量は、多いときには短く、少ないときには多めに時間をかけた方が美味しいが、これも好みだ。

三番煎じを一時間ほど火にかけたまま忘れていたことがあったが、これはこれでまた味わい深い。

それから私がドリップはあまり美味しくなかったと書いたが、それは少ない量をドリップしたからだ。友人が来たときには多い量をドリップするが、この時ばかりは美味しい。

少ない量でも味が変わらないのは、サイフォンコーヒーだ。

サイフォンには、大きなものと小さなものとがあるが、少なくいれるときには小さなものの方がいい。

サイフォンでは、少ない量でも多い量でも味が変わらないのは、豆を全部お湯に浸すことになるが、ドリップで少量いれると、中心と外側とでは温度が違ってくるのと、少量ではすぐにお湯が落ちてしまうが、大量にいれるとお湯がゆっくり落ちる事の違いだろう。

コーヒーは嗜好品だ。だから好みが別れる。

私はブラジルが好きだが、モカマタリの好きな人もいれば、ブルーマウンテンの好きな人もいる。

バラエティーに富んでいるから、嗜好品は楽しいのだ。

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コーヒー

私は凝り性なので、肩も凝れば、食べ物にも飲み物にも凝る。

美味しいものを追求するとキリがない。

だからといって私はグルメではない。グルメレポーターたちの美味しいというものが、私にとってはそれほどでも無いときがあるからだ。

コーヒーにはまった一時期があった。

サイフォン、ドリップ、パーコレーターなどを手に入れて、美味しいコーヒーを追求した。

私が美味しいと思ったのはサイフォンコーヒーだった。

通はドリップが一番だというが、私にはサイフォンが合っていたように思う。

さて、入れ方は決まったので、今度は豆を追求し始めた。

最高に美味しいというブルーマウンテンを手に入れて飲んでみたが、それほど美味しいとは感じなかった。

豆屋が悪いのだろうと、あちこちのコーヒー専門店で手に入れて飲んでみたが、それほど美味しいとも思わない。

そんなとき、浅草のコーヒー専門店で、生の豆を売っていた。

一応知識だけはあったので、生の豆を手に入れた。

生の豆は、新鮮なものほど美味しくない。少なくとも一年以上寝かせておいた方が美味しい。出来ることなら三年以上寝かせた方がもっと美味しくなる。

というような知識だけは持っていた。

ブルーマウンテンの生豆は無かったので、コロンビアの生豆を多めに手に入れて、その一分はすぐに飲んでみることにした。

フライパンをきれいに洗ってから、火にかける。

すると煙が立ち上る。これは料理で使った油が蒸発しているから、煙が出なくなるまで熱してから、少し冷まして新聞紙で余計なものを拭き取る。

油分の無くなったフライパンをあらためてガス台に乗せて、フライパンを温めてから、生豆を入れて煎り始める。

次第に色づいてくる。

好みの色になったら、ここからが大切だ。

すぐに広げた新聞紙の上にぶちまけて、扇風機を当てて大急ぎで冷ます。ゆっくり冷ましていると香りが逃げてしまうからだ。

すっかり冷めたところで、コーヒーミルで挽いてから、サイフォンに入れて飲んでみた。

これまでに飲んだどのコーヒーよりも美味しいということがわかった。

ブルーマウンテンとコロンビアは、豆の傾向が似ている。どちらも酸味系統だ。

コーヒー専門店で手に入れたブルーマウンテンよりも、生豆を煎ってすぐにミルで挽いて飲んだコロンビアの方が数倍美味しかった。まだ新しい豆であるにも関わらずだ。

しかし考えてみれば、コーヒー専門店でも、生豆を寝かせるということまではしないはずだ。三年分の豆を良好な状態で保存するとなると、結構なスペースも必要になるし、金もかかる。

ということは、どちらも生豆は同じということになる。

そういうことなら、煎ってある高い豆を手に入れる必要はない。コーヒーの美味しさは、煎り立て、挽きたてをすぐに飲んだ方が遥かに美味しいのだ。

しかも、豆は大量に煎るよりも、少量煎った方が美味しくなる。その理由は・・・少ない量の方がすぐに冷えるから。

豆は、煎り具合も大切だが、それを如何に早く冷ますかも大切なのだ。早く冷ませば冷ますほど、香りが逃げない。

三年たって、貯蔵してあった生豆を煎って飲んでみた。

実にうまかった。

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十人十色

十人十色という言葉がある。

一人一人それぞれに違うということだ。

けれども多くの人はそう思っていない。

それは決めつけるからだ。

だから相手が思わぬ行動に出たり、思わぬことを言ったりすると戸惑ってしまう。

戸惑うくらいならまだいいが、自分の予測とあまりにもかけ離れていると怒りだす人がいる。

約束を違えたときや、嘘をついたときには怒ってもいい。

それはお互いにルールを決めて、お互いそれにしたがうと約束したのだから、約束を違える方が悪い。

だが、任せるといっておいて、それが予測と違うときには怒る方がおかしい。相手に任せるというルールを決めたのだから、怒る方がルールを破っていることになる。

何故ルールを決めるのか。

それはお互い考え方が違うということを知っているから、ある部分だけは同じにしないと、仕事などがうまく行かないからだ。

ところが、これらのことを、常識という枠組みの中に入れてしまった人は困りものだ。

何故そうするのかということを考えずに、そうすることが当たり前だと考えている人は、自分の思い込んでいる当たり前でないことに怒りだす。

多分多くの人がそうだろう。

だから「世界に一つだけの花」という曲が大ヒットしたのだ。

十人十色という言葉の意味を本当に知っている人なら、「当たり前のことだよ」と感じるだけで、感動するほどのことではない。

だが、十人十色という言葉は知っていても、その意味について本当に理解していない人が多いから、十人十色という意味を説明した「世界に一つだけの花」を聴いて、なるほどそうだったのかと感動するのではないだろうか?

一人一人はみんな違う。同じように見えても、同じように行動していても、同じような考え方を持っているように見えても、本当は少しずつ違っている。

その少しずつが重なっていくと、たとえば少しずつ違うことが百もあれば、信じられないほどの違いになってしまう。

たとえば紙を一回折っただけなら厚みはたいして違わないが、それを百回も折っていくと、どれくらいの厚みになると思うだろうか?

多くの人は、せいぜい数メートル位しか考えないだろう。

突拍子もない答えを出すひとでも、せいぜい地球から月までの距離と答えることだろう。

だが実際は、なんと百億光年の厚みになってしまう。

嘘だと思う人は計算してみるといい。紙の厚みは0、1ミリとして、それを百回折るということは、01×2の百乗。

もっとわかりやすく言うと、0、1ミリの厚さの紙を十回折ると厚みは千倍、10㎝になる。

二十回折ると更にその千倍の10m、三十回で10㎞、四十回で10000㎞、五十回で10000000㎞、これだけて地球から月までの距離を遥かに超えてしまう。

少しずつの違いが、他の人の一万分の一の違いだったとしても、それが百も重なれば、百万光年の違いになってしまう。

・・・でも・・・

共通点が少しでも重なれば、これもまた大きな共通点になってくる。

恋人の時には、相手の良いところだけしか見ていない。その良いところが百もあれば、百億光年の素晴らしさに見えてくる。

ところが結婚してみると、相手の悪いところが次第に見えてくる。それがほんのわずかでも、百も重なれば百億光年の欠点に見えてしまう。

男から見た女はどのように映っているのだろうか?

女よ

女よ、女よ、羽をつけて
高く空へ 翔べよ翔べ
おくれ毛が春に燃えてる

女よ、女よ、駈けてゆけ
なんだか熱いね、砂も恋も
焼けた肌、夏にきらきら

女よ、女よ、ふっと溜息
ほおづえが UM・・やるせない
おくれ毛秋に濡れてる

女よ、女よ、ひとり佇んで
言葉も言葉もなく、ただ白い音
うなじが雪に溶けてる

廻る廻る人の運命は
風に乗ったり 淀んだり

女よ、女よ、羽をつけて
高く空へ 翔べよ翔べ
おくれ毛が春に燃えてる

http://okmusic.jp/#!/works/16782?n=%E5%A5%B3%E3%82%88

予想もしなかったような答え、行動を見たときに、それを腹立たしく思うか、それとも面白がってしまうか、それがまた、その人の個性になる。

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ビハインド

生きていれば、必ず誰かと、何かと、関わりを持ってしまう。

 それを面倒だという人もいる。

 それを楽しいという人もいる。

 だが、関わりを持つということは、関わりを持たれたということでもある。

 自分史を書けば、関わりを持った人や物事が、自分史の背景として描かれる。

 他の人から見れば、自分はその人の背景として描かれることになる。

 もしも、街路樹や古い建物が主人公として、小説やエッセイが書かれるとすれば、それに関わった自分は、街路樹の背景として、建物の背景として描かれる。

関わらないにしても、その近くを通りすぎたとしたら、その他大勢の一人として描かれることだろう。

 何故街路樹がそこに植えられたのか?人との関わりを持つためだ。

 何故建物が建てられたのか?人との関わりを持つためだ。

 ペットにしても、動物園の動物たちにしてもそうだ。

 動物が主人公の物語があるとすれば、自分もその背景になる。

 品物にしてもそうだ。品物が主人公なら、自分はその品物の背景にしかすぎない。

 自分から見れば全てが背景だが、他の人から見れば、他の動物や植物や建物から見れば、自分は背景の一つでしかない。

 

 

 

 

ビハインド

 

夢を食いながら生きている
人の流れが止まらない
街の男やビルや車も女もシグナルも景色になる
オレの背中で 場面が変わる

 

あれは古い話さ止めよう
行きずりの恋だから
オレも人から見ればこの街の風景にすぎない
オレの背中の景色が変わる

 

ビハインド ビハインド
生きて過ぎてついてきてビハインド

 

道は夜になれば見つめ合う彼や彼女
やがて二人は街外れの闇のなかに消える
二人の後ろで景色は止まる

 

風は一度吹いても 暫く
街路樹の葉は揺れる
オレも人から見ればこの街の風景にすぎない
オレの背中で景色は動く

 

ビハインド ビハインド
生きて過ぎてついてきてビハインド

 

 

 

 

けれども、背景には背景の存在感もあるのだ。

 

http://okmusic.jp/#!/works/13322?n=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%EF%BC%88%E8%83%8C%E6%99%AF%EF%BC%89

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只はどれほど高いのか

以前私は「只より高いものはない」と書いたことがある。

だが、その時には気がつかなかった恐ろしいものが、ようやく最近わかったので、それを書くことにした。

バブルがはじけたあたりから、只のものが増えてきた。

それまでにも無料ソフトはあったが、それが今はものすごい。

無料ソフトだけで、大抵のことは出来るようになった。

写真の加工も、文章作成も、表計算も、ビデオの編集も、現在では無料ソフトで、バブル期の有料ソフトよりもいいものが出来る。

音楽にしても映画にしても、無料で多くのものが鑑賞できるようになった。

仕事も遊びも、無料で出来る。

そうなると、有料のものが売れなくなる。売れなくなれば、作り手は収入が減る。すると会社の場合は人員整理や、給料の削減、ボーナスカットをせざるを得ない。

実際サラリーマンの給料は三万円ほど少なくなっているそうだ。

給料が減っただけではない。会社の収益が落ち込んでいるのだから、新しく人を雇う余裕もない。

そのせいだろう。若年層の就職難が続いている。

そしてその若年層こそが、無料のものに飛びついた中心だ。

お金を出して物を買うことが、ダサいと思っているから、会社は縮小せざるを得ない。

そのつけは結局自分たちに回ってきたのではないか。そう思える。

お金を払うということは、相手を儲けさせることになるが、その儲けた相手が、自分を雇ってくれるかもしれないのだ。

直接自分を雇ってくれなくても、そこに就職できた人たちが物を買うから、結局、自分の入りたい会社を儲けさせて、その分求人が多くなる。

その逆をしているのだから、現在の就職難は、自分たちが招いたものといえるかもしれない。

バブル期、輸出で日本は潤っていたと思う人が多いが、実際は、国内消費で日本は潤っていた。

日本の消費は当時世界でもトップクラスだったのだ。

その時不況にあえいでいたイギリスは、みんなで倹約して、国内で作られるスコッチウイスキーなど良いものは輸出しようとしていた。

なんだか今の日本を見ているような気がする。

この不況を、何とかして輸出を盛り返すことで乗り切ろうとしているからだ。

ブログでも、時折倹約の勧めなどが書かれている。

みんなが倹約を始めたら、益々デフレになってしまう。

ギリシャでは、ユーロがあまり使われなくなった。ユーロそのものがギリシャから無くなったわけではない。ユーロを持っている人は将来のための貯蓄に当てて、それを使おうとしないそうだ。

だから街は閑散としてしまって、働き口も無くなった。

そこでその打開策として、ある街が、そこでだけ通用する通貨を作った。

その通貨にはある規則があって、日本円にして六千円以上は貯蓄できない。その通貨はコンピュータ管理されていて、誰にどれだけの通貨があるか、ということがわかってしまうからだ。

使うときには、自分の口座から相手の口座へ振り込まれる。実際の通貨そのものは存在しない。

だからみんな、六千円以上の収入になりそうなときには、すぐに使ってしまう。

その街では、ユーロはほとんど流通していなくて、その地方通貨がほとんどらしいが、それによって、失業中の若者たちは、収入を得て消費をして、それなりに暮らしているそうだ。

ものを金を出して買わないことが、流通をマヒさせると言う良い例ではないだろうか。

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唯我独尊

自信を持った人の目は素敵だと良く言われる。

私もそう思う。

けれども、自信と尊大とは紙一重だ。

自信家が一番陥りやすい間違いは、正解は一つだと思い込んでしまうことだ。

だが世の中には正解は必ず一つ以上ある。

正解は一つしかないと思われている数学の世界にも、答えは複数見つかることがある。

仮に一つの答えを導き出すにしても、数学オリンピックで見るように、その手法はいくつもある。

ユニークな手法で正解を導き出す人を見ると、なるほど、そういうやり方があったかと嬉しくなる。

自信家の陥りやすいのは、正解は一つ、手法も一つしかないと思い込むことだ。それが尊大に繋がる。

尊大な人は、自分の期待していたたった一つの答えしか認めない。

そのやり方にしても、自分のやり方こそが、世界で唯一合理的なやり方だと思い込んでいるから、違う手順をする人を見ると怒鳴り散らす。

神様ならいざ知らず、人間なのだから、絶対正しい答えなど持ち合わせていないはずだ。

もしも数学の世界に、絶対正しい答えがあったとしたら、数学はそれ以上には進化しない。新しい答えなど、絶対に見つからない。

けれども、学問としてはこれ以上ないほどの合理性を求める数学の世界にも、新しい答えや、新しいやり方が見つかっている。

ということは、絶対正しい答えなど、存在しないということだ。

数学の世界さえそうなのだから、他の世界では、もっと多くの正解が見つかるはずだ。そうして見つかった多くの正解の中から、現時点でもっとも合理的と思われるものが、スタンダードになる。

「不可能」と言いきる人は「これ以上の進化はあり得ない」と言い切っているのと同じことだ。

自分と違うやり方を認めない人は、自分を神だと思っていることと同じことで、尊大だ。

だから私は、自信を持った人は好きだが、自信に満ちあふれる人は好きにはなれない。

それよりもむしろ、引っ込み思案にならない程度のコンプレックスを持っている人の方が好きになる。

なぜならそういう人は、自分だけが正しいとは絶対に思っていない。

一応正しいと思っているだけだ。

私の大好きな言葉「その上左衛門」

どんなに褒められても、もっとすごい人が必ず世界のどこかにいるはず、もっと合理的なやり方がどこかにあるはずと思っている人だ。

ソウイウモノニワタシハナリタイ

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